2013年8月18日日曜日

あぁ、生きた証

「■12月27日は一時代が終わった日
一時代が終わった日――。スポーツ界では使い古されたフレーズであるが、特に日本人である私たちにとって、
米国時間の12月27日(日本時間28日)は紛れもなくそう呼ぶにふさわしい1日だったのだろう。
「私、松井秀喜は、本日をもちまして20年間に及ぶプロ野球人生に区切りをつけたいと思います。
20年間、応援をしてくださったファンの皆さんに感謝の気持ちを伝えたいと思います」
ニューヨークのミッドタウンで行われた記者会見で、松井は一言一言かみ締めるように言葉をつないだ。
その声は、いつにも増してか細いもの。当初は涙をこらえているのかと思えたが、久々に公式の場に出てきた緊張もあったのだろう。
時間が経つにつれて、いつも通りの穏やかな表情に戻っていった。
「チャンスをもらいながら、今季の結果が振るわなかった。これが(引退を決めた)一番大きな要因です。
命懸けでプレーし、メジャーという場で力を発揮するという気持ちで10年間やってきたが、
結果が出なくなったことで命懸けのプレーも終わりを迎えた」
■引退は“椅子取りゲーム”に勝てなくなった結果
そんな言葉通り、区切りの10年目となった2012年は松井にとって苦しい1年だった。
開幕までに所属先が決まらず、4月30日にやっとレイズと契約。5月29日にメジャー昇格も、
34試合で打率1割4分7厘、2本塁打、7打点と散々な成績に終わり、7月25日に戦力外通告を受けた。
両膝に爆弾を抱える38歳。
外野守備にはつけても、そのスキルはメジャーでは最低レベルで、打撃成績もここ3年は下降線をたどる一方だった。
これだけ悪い条件が重なれば、次の所属先など簡単に見つかるはずもない。
「野球が好きなんで、プレーしたいという気持ちはあった」と松井本人も未練があったことは認めている。
日本復帰は考えられなかったとしても、米国の球団から現実的なオファーがあればおそらくそのチャンスに懸けていたのではないか。
日本が生んだ最高の長距離打者の引退は、最終的には、加齢とともに“全米が舞台の椅子取りゲーム”に勝てなくなった結果と言っていい。
ただそれでも、メジャーリーガーとして、特にヤンキース時代の松井の活躍が見事だったこと、
そしてその野球人としての軌跡が素晴らしかったという事実が変わるわけではもちろんない。
■色あせないワールドシリーズの記憶
米国では、キャリアを立派にまっとうして引退する選手には「おめでとう」という言葉を送るもの。
今回の松井のケースに関しても、終わりを悲しむより、祝福の言葉の方がふさわしいのではないだろうか。
メジャー通算1236試合で打率2割8分2厘、175本塁打、760打点。
中でもヤンキース時代の打率2割9分2厘、140本塁打、597打点は立派な成績であり、その貢献度は数字が示す以上に高かった。
ニューヨークでは主に4~6番という重要な打順を任され、勝負強さと献身的な姿勢でスター軍団の中でも存在感を築き上げた。
「パワー自体は“ゴジラ”という愛称で喧伝(けんでん)されたほどではなかった」という声も聞こえてくるが、
それでも安定して20~30本のホームランが期待できる日本人選手は他にいないし、これから先も出てこないかもしれない。
「ヤンキースで7年間もプレーできたことは最高の出来事だったし、最高に幸せな日々でした。
初めてヤンキースタジアムでプレーしたこと、最後にプレーした日のことは、一生忘れることなく心の中にあり続けると思います」
そう感じているのは松井だけでなく、ニューヨークのファンも同じだろう。
伝統の球場で初めてプレーした03年4月8日のゲームでは、松井は右中間への満塁ホームランを放った。
最後となった09年ワールドシリーズ第6戦では、ヤンキースを9年ぶりの世界一に導き、
自らのシリーズMVPも決定付ける3安打、1本塁打、6打点。
以降のヤンキースは世界一から見放されていることもあり、松井が打率6割1分5厘、3本塁打と爆発したワールドシリーズの記憶は
ニューヨーカーの中でいまだに鮮明である。
■MLBとヤンキースを身近にしてくれた
ここで少しだけ個人的な話をさせてもらえば、筆者はニューヨークに住んでいてもヤンキースファンではないし、
09年の世界一の際にも特別に歓喜したわけではない。
公平さを保つために選手に必要以上に近づかないというポリシーもあって、松井とも親しかったわけではまったくない。
それでも、この街で短くない時間を過ごしてきた人間の1人として、その存在をリスペクトしているし、感謝もしている。
松井入団直後のニューヨークには、おかげで日々の楽しみが増えたというファンが山ほどいたし、
スタジアムにも以前にも増して日本人ファンが見受けられるようになった。
松井の活躍はビジネス面でも多くの人にさまざまな影響を及ぼし、その恩恵を受けた中には筆者も含まれるのだろう。
そんな人々の見守る前で、松井は故障時以外は休むこともなく、黙々とグラウンドに立ち続けた。
勝っても負けても、打っても打たなくても、同じように記者たちの質問に答え続けた。
そんな不器用なやり方で、MLBとヤンキースを私たちにとってより身近なものにしてくれたのだ。
■これから先も盛大なカーテンコールを
「1999年のオフ、ヤンキースの試合を1日でいいから見てみたいと思い、米国に行きました。
ヤンキースタジアムで試合を見たことが運命のような気がします。
3年後にFAになるのは分かっていたので、このチームから欲しいと言われるような選手になりたいと思いました」
現役時代は当たり障りのない発言が多かった松井だが、スタートの地・ニューヨークでの引退会見でのそんなコメントは胸に響いた。
自身が“運命”と呼んだその日以降も、日本で成績を残し続けることでヤンキースから認められ、希望通りの道を切り開いた。
それは本当に運命だったのか、偶然だったのか、あるいは松井らしい努力の結果だったのか。
その答えはどうあれ、こうして引退の時を迎えた今、10年前にそんなシナリオが実現したことにあらためて感謝したい。
“ゴジラ”が上陸したことは、ニューヨークで暮らす人々にとっても喜びだった。
日本人にとっても、米国人にとってもそれは同じだった。
だからこそ、これから先も、何年の時が経とうと、この街に戻ってくるたびに、松井は盛大なカーテンコールを浴び続けるに違いない。」
(「sports navi」より引用)
今朝のニュースで衝撃が走った。
松井引退
引退時かとは言われたが、やはりそれが現実となると、何と言っていいのか言葉が出てこない。
今はこの先何も決まってはいないだろうが、今までを振り返ってみてその実績と多くの野球ファンの記憶に
焼き付けた数々のプレイはきっと後生まで語り継がれる事は間違いない事である。
今、ただひと事言えるのは、お疲れさま、そしてありがとう。
 

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