2011年4月2日土曜日

とある小説家志望のブログ

いまだに論語を読んでいる。
現代日本人には最初から最後までとにかく読んで欲しい書物であるなぁ。革命的に新しい書物であることよ。目から鱗が落ちるとはこのことを指すのだと思われる。

学んで時にこれを習う、亦たよろこばしからずや。

要諦はこれである。これに尽きる。急所はその一語で十分だ。それに人間の持つエネルギーをうまくいかせればそれは「仁」であり、それを為すものは「君子」である。その真逆である存在は「悪」であり、それを為すものは「小人」である。「仁」を持ちつつ考えを異にするものは争う、つまり「乱」である。けれど、最終的には「義」によってそれが為されたのだとすれば、「和」を生じ、平和が訪れる。静謐が訪れる。
そういうことなのだ。
去年の大晦日の特番で清原対桑田の最後の対決というイベントが行われたが、それこそまさに上の論法でもって説明できるのだ。
彼らはとある「事件」で禍根を残す仲ではあったのだけれど、清原の家族愛(仁)と桑田の彼への友情という「義」でもって、最終的に桑田は、清原に、チャンスボールを投げ与え、彼にそれを打たせ、清原の家族愛を守った。そこには「乱」の末の「和」が生じたのだ。ぼくは、それに深い感銘を受けたのである。
そういうことなのだ。
夏奈のバカ野郎っぷりも千秋の容赦ない姉への態度も、春香の彼女らへの愛もそういった視点で見れば、見事に収まりが付く。そこには「仁」があったのだ。それゆえの「忠」もあり、そこが彼女らの家族愛へと発展し、「和」を生んでいるのだ。
フィクションではある。だからこそ、純粋な愛の形を構築でき、それをぼくたちは鑑賞でき、彼女らを愛でることができる。
……まあ、ぼくは内田限定ですけどね。( ̄∇ ̄)。……いやまあ、夏奈にも千秋にも「愛」を持っていたら二股、三股じゃん? だから内田への愛は一途なものだから、そういう述べ方で合っているはず、ですぜ?
* * *
ともあれ、論語は深い。孔子(孔丘)という人をぼくはとても誇らしく思う。彼のようなすばらしい仁者がいてくれたからこそ、東洋は西洋とためを張れるすてきな文明圏を構築できたのだからなぁ。そして、二一世紀初頭の日本においてはまんがと、そしてラノベとがぼくたちの心を潤いで満たしてくれているのだからなぁ。
本当に。すばらしいことだよ。
 

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